プロフィール

 

はじめまして
ブレインビューエネルギーセラピストのさくらです。

怒り、心配、不眠、人間関係、仕事ストレス

不登校、アトピー、自己免疫疾患、頭痛、腰痛、腹痛、膝、首など

どこに行っても治らない

心と身体の不調から逃れたい方のためへ。

その症状の

本当の根本原因を探し出して

アプローチする事で改善へ導いていきます。

過去の感情の記憶が原因の場合は

カウンセリングで辛さを癒やしていきます。

すると

不調や不満が感謝へと感情が変わっていかれる
ブレインビューエネルギーセラピー

というものを提供しています。

私は、
薬害、医療ミス、心身症からの不眠

股関節の痛みから線維筋痛症の症状になるなど

自分自身の身体の不調

家族、嫁姑、風習、家風問題、子どもの不登校と様々な

困難の中に生きてきました。

 

その中で私は心療内科、精神科にお世話になりましたが、
病院通いでは改善しませんでした。

しかし
エネルギー療法

立ち直ってきました。

 

そんないろいろな経験から、

私と同じような心の苦しみを

感じているかもしれないあなたの
少しでも

心の支えになりたいと思い現在は

セラピストとして活動をさせて頂いております。

 

 

心の叫びを出し切ってから

今の症状の

本当の根本原因にアプローチして

改善へ導いていきます。

 

 

過去の感情からくる不調もあり、そこを癒して解放すると心が楽になります。

この悩みや不調を改善するセラピーをさせて頂くには

セラピストである私と

クライアントのあなたとの相性
とても大切です。

相性がポイントになります。

 

 

ですので長文になりますが、
私のプロフィールを書いてみました。

ぜひご覧頂けたら嬉しいです。

どんな人なのか、相性を

ご判断ください。

プロフィール

☆ 親の祈りで生きた命

私は生まれた時に
1週間持たないでしょう”と
言われたそうです。

 

そして当時の親の給料の
1か月分ほどの

保険のきかない1本の注射を
私にしたそうです。

昔なので
アスピリンかもしれませんね

 

裕福ではなかったと思うので
凄い決断を迷いもなくしてくれたものです。

 

☆ 生まれてから5日目で初めて名前をつけて貰った

1週間持たないでしょうと言われたので、名前をつけなかったそうです

 

毎日、
今日も生きた、2日目、今日も生きたと
無宗教の親でしたが毎日、
強く祈ったそうです。

 

5日目を生きた時に
やっと名前をつけたそうです。

 

そんな強い祈りで頂いたこの命を

今は、この尊い命を使って
人様が少しでも幸せになれるようにと

 

祈ってあげる人として、
カウンセラーとして
この命を捧げて生きていきたいと
望んでいます

☆ 小1から自分で自分の髪を切る

後ろ刈り上げのちびまる子ちゃんになる床屋に行くのが嫌で嫌で、
少1から自分で自分の髪のカットを
始めました。

どうやったらサイドの髪が
横に流れるかなあ、

前髪もどうやったら自然に
シャギーになるかなあと

自分の髪で研究するのが
楽しい毎日でした。

 

そのうちに姉の髪も頼まれて
カットするちびっ子美容師誕生です。

中学の時には友達にカットを頼まれてカットするようになっていました。

 

☆ デパートガールか美容師か

そんな私が

銀座三越デパートガール目指して
高3で就職活動していたら、

友人たちが不思議そうな顔をして
「えっ!なんで美容師しないの?」と言ってくるのです

 

沢山の友人に絶対に向いてるから!と絶賛されました。

 

正直、世間を知らな過ぎて美容師という職業とか私にはまるで
眼中にありませんでした。

 

友人達に絶賛されましたが
自分としては
思いもよらない進路でしで

 

☆ 周りの推薦に悩む悩む

やっていけるのだろうかとの
不安の方がとても大きくて

自分の中では全く
自信もありませんでした。

 

美容師として仕事として考えると甘くないですからね。
友達をカットするのとは違うんだよねと。

 

ここは、意外と慎重派に考えました。

 

私の就職希望は毎日、
定期券で降りて遊んでいた銀座三越の

デパートガールになる事でした。

 

☆ とうとう決意表明

まさか、更にまた学校に行くなんて、と
かなり悩みました。

 

親に経済的負担もかけるよね、と
すぐには決められずにいました。

 

親はなんて、言ってくるのかなあと
思いながら

反対されるかなあと思いながらも、
意を決して
親に言ってみると

 

「手に職を付ける事はいいことだ!
いいんじゃないか」と

あっさりと太鼓判をおされました。

 

反対されると思っていたので、
ここで後に引けなくなったのです。

 

そうやって周りに後押しされて
なんか導かれたように
美容の世界へと入りました。

 

☆ 盲腸炎でまさかの医療ミス

少し戻り、高校2年在籍中の時、
盲腸炎で入院しました、

7日間で退院予定でしたが
消毒用ガーゼを腹部内に残して綴じるという
まさかの医療ミスを経験しました

 

体内で化膿してうみが止まらず
1か月たっても

穴が塞がらない状態で
毎日、消毒するだけの1か月が
過ぎていました

 

☆ 腹部開いたまま退院

親の判断で強制退院をしました。

 

穴が開いたままなので
外気の菌が体内に入ったら
私はこのまま死ぬのではないかと
恐怖でした。

 

☆ 効果抜群だった温灸

ですが、
親の勧めで
味噌、ニンニク、ヨモギの温灸
施すと

あっという間の
たったの3日程で穴が塞がったのです。

なんと!凄い!

東洋医学の凄さの実体験をしました。

 

それまで、小さい頃に
姉が扁桃腺で熱を出すと
ネギと梅干をガーゼで喉にまいたり、

肩こりにビワの葉を当てたりする父を

斜めに見ていた私でしたが、

 

この事から
私自身が東洋医学に興味を持ち始めました。

 

西洋医学よりも
東洋医学の方が
本当はいいのではないか。

私の知識不足と
思い込みだったんだなあと

私自身が
どんどんはまっていきました。

 

☆ 美容室勤務の時パワハラ、
セクハラに

無事に専門学校入学、
国家資格も取りました

 

お客様が
「こんな風にして欲しいです」と

希望のヘアスタイルの切り抜き画像をお持ちになられたら
髪質、量、くせなどを考慮しました。

 

相手の希望を叶えてあげられる美容師としてやっていこうと
はじめた時から今もずっと心がけています。

 

なぜなら
私がお客さんとして
「こんな感じにして下さい」と

写真を切り抜いて持っていっても
全然違うヘアスタイルにされて、

 

いや~な気持ちのまま
黙って帰ってきたことが
何度もあったからです。

 

ですが、志があっても
技術以外の事柄では
現実は厳しい世界でした。

 

☆ 心の病のはじまり

労働環境は1年間通して早朝も夜も休日も出勤の体制でした。

 

ビダルサッスーンの
パリのアカデミーの講師の店
という

誰もが憧れる技術もピカイチの店でしたが。

 

華やかな世界の裏側で
今でいうブラックですね。
休みは殆どありませんでした。

 

また、オーナーに休みに呼び出され
断れずに行ってみれば関係を迫られるセクハラ、

 

断ると次の日から
理由もなく怒られる、

ブラシやピン止めが飛んでくる、
やりきれませんでした。

 

まるでドラマの世界が繰り広げられてる世界にいたのです。

 

☆ 止まらない咳

気がつくと原因不明の咳が止まらなくなっていました。

薬が効かないので、どんどん薬が強くなっていくのです。
そのうちに
強い薬の副作用が出ました。

 

手が震えて箸でご飯をつかんでも
落としてしまうのです。

湿疹も出ました。

 

“これは劇薬です8時間空けて下さい”などと書いてある薬もあり
飲むのが恐ろしくなりました。

 

その時はこの咳が
精神的な事からくる咳だとは
全く気付きませんでした。

 

 自然療法あれこれ

もう薬が怖くなり
飲みたくなかったので

自分で色々と調べはじめます。

 

東洋医学の書籍をあれこれと調べて
色々と試す日々を続けました。

 

黒豆とショウガを煮て汁を
飲んでみました。

キンカンと蜂蜜を煮て食べました。
大根に蜂蜜塗り一晩置いて出た汁を
飲みました。

 

おばあちゃんの知恵袋みたいな方法を
色々としてみたのです。

 

何が効いたのか、
あらゆることをやっていたら
そのうちに
少しづつ治っていきました。

 

☆ 結婚して東京から富山に

美容師の私は
200坪大型美容店舗のフロント勤務だった主人と結婚しました。

 

長男じゃないから
富山に行かないよね、と

確認して入籍しました。

 

が!しかし!2年後のことです、
突然に宣告してくるのです。

 

「兄弟3人で帰省して親の会社を
盛り上げることにしたから」と。

主人は男兄弟の3番目でした。

 

えっそんな!
帰らないって約束は??

 

☆ 迷いの中に引越。待っていたのは

文化の違い、方言、厳しい家風、しきたり、男尊女卑、嫁姑、近所付き合いとか
カルチャーショックな
悩みのオンパレードでした。

 

出来るだけ早くとけ込もうと
実家を尋ねたら、

はじめの一言は
「何しに来たが?」(これ方言です、その時はわかりませんでした)

 

お台所の手伝いにエプロン持参しない私に貸してくれた
糊でパリパリの真っ白なエプロンを
つけると

すかさず
「紐の結び方が汚い、後ろから見られて綺麗なリボン結びにしなさい」

従兄弟の子供にジュースをあげる時に手で渡すと
「お客様用のお盆にのせていきなさい」
お叱りの連打でした。

 

行事、法事、盆、正月など
集まり全てが

何もかもが

 

まるで旅館の中居か
女中のようでした。

嫁の席などはありませんでした。

 

☆ 居場所がない

また他に姑は
私達のアパートに訪ねて来ました。

 

タンス、引き出しの全てを開けて見て
あれこれと注意されました。

 

鍋は全てピカピカに磨いてないと、
そこで磨き始めた義母でした。

毎日のように電話がきます。
「今、何している?」
答えないといけないので

「洗濯です」と言うと
「今頃してるのか遅いね」

 

「今日の夜のおかずは何?」

何々です」と言うと

 

「そんなものを息子に
食べさせるのか」

 

ほとんどが支配されて
全てが言われるままに従う日々でした。

 

何もかもが否定されました。
注意されることばかりでした。

 

さらに
毎土曜日に実家でご飯集合と、
声掛けられました。

土曜の朝になると
頭痛、腹痛が襲ってきます。

☆ 電話線を外す

電話が恐怖!!
姑が家を訪ねて来るので
鍵を閉めて居留守をしました。

 

眠れない、頭痛、神経性胃腸炎、
ストレスで顔中に吹き出物、
頭に大きな石がある感じでした。

 

水を飲んでも
胃の激痛が起こりました。

何も食べられません。

 

☆ 公的機関の相談所に通う

何度も通いましたが
何の解決にもならないと感じながら
頼る所がないので通っていました。

 

した事は、ただ話して
泣いてくるだけでした。

”もう絶望的だ”と暗い心に
沈みこんでいました。

 

初めての土地なので

知り合いも友達もいないので閉じこもってしまいます。

話す人がいなくて心細くて仕方ありませんでした。

外国にいるような気分の孤立感で一杯でした。

 

“これから、私ここで生きて行けない“

“無理だよ”
“逃げたい”
“助けて”
“苦しい、つらいよ”
泣いてばかりのパニック状態でいました。

 

 もう限界

限界だ、実家に帰りたいと思い立ち
3か月がたつ頃に相談所の所長さんに
頼み込みました

 

「治療の為にここから離れる必要がある」
と書面で書いてもらえませんか」と。

 

「そうでもしないと私、
実家に帰れないです、

怖くて自分では言えませんから」
とお願いしました。

 

了解してもらい、
とうとう相談所から送付してもらって

姑と会わずに東京に帰る事が
出来ました。

当時の私にしては身を守る為に
頑張れた経緯です。

もう、2度と帰らないだろうと
覚悟の帰省をしました。

 

頭痛、不眠、神経性胃腸炎、
いつも頭に石が乗ってる感じ、
顔中ニキビ、心身症
を抱えてました。

 

☆ 東京で精神科、心療内科に通う

ここでも病院では睡眠薬、ホルモン治療、胃腸薬の処方箋でした。

 

“薬をいくら飲んでも治らないよ”
と思いながらも
なすすべがなく病院に通いました。

 

“心が壊れているのに”

 

睡眠薬、ホルモン剤、胃腸薬では
この心のヒビは治らないよ、と
心で小さく言っていました。

ただただ
もうどうしたらいいの。
わからないと悶々としていました。

 

☆ 父親カウンセリングでほどけていく心

1か月程、
な~にも聞かない、な~にも言わない父でした。

 

実は
父は苦労人なんですね。

 

14歳で知らない土地知らない大人の中に
丁稚奉公に出されたのです。

 

お金もないし電車なども乗ったことがない子供なので
どんなに逃げたくても
どんなに帰りたくても
帰れなかったと言ってました。

 

昭和中期の丁稚奉公です。

洗濯、トイレ掃除等々こなして

ご飯を頂くから
給料などはなかったそうです。

 

技術を教えて貰う
丁稚奉公の昔の厳しい世界ですね

 

その状態で
三越に納品する程の家具職人になり
国会議事堂の椅子を作り

家も建てる職人になり
人も雇う親方にまでなったのでした。

 

その父が
私の心のカウンセラーをしてくれたのです。

 

☆ 父が私の心のカウンセラー

1か月程、
な~んにも聞かない、
な~にも言わない父。

 

唯、黙って病院通いを見守っていてくれた父でした。

 

ご飯が少しづつ食べられるようになりました、
顔の吹き出物も消えていきました、
頭痛もやわらぎました、
眠れるようになってきた頃に、

 

静かに
「どうしたんだ」
「何があったんだ」
と、はじめて聞いてきたんです

 

様子を伺っていたそうです。

 

話すと
思い出して泣けて泣けて話が出来なくなってしまう私でした。
また、パニック状態に陥りました。

“もう、やっていけない”
“戻らないつもりで来た”
と伝えました。

 

すると

 

父カウンセラーは淡々と話してきたのです。

 

 心にしみこんでいく言葉

“お前は結婚して嫁になっている身だよ。
ここは、帰って来る所ではないよ

 

ただ、
我慢して、自分を無くして、
自分を捨てて

言われるままに従って
支配されてるだけだから、

 

そんな病気になるんだよ。

 

私はこう思うとか
意見、考えを言ってみなさい。
分かり合える努力をしてきなさい、

 

人と人だから分かり合えるだろう、

 

それでも、義母に
貴方は嫁としてこの家に
必要ありません、と

勘当されたのなら、
戻ってきなさい、と“

 

帰るように促されました

 

☆ 父のアドバイスの通り富山に帰る

 

私は、そうだな、少しずつ
意見を言ってみよう、

やるだけやってみよう、

 

そうしないと後で、もしかしたら
これで良かったのかなと
後悔するかもしれないな、

 

やるだけやったら
きっと後悔しないよね、

 

本心は怖かったけれど
「わかった、うん」と
帰ることにしたのです。

 

高校での医療ミスにあった頃から
父に対しては
親としての信頼、
尊敬を抱くようになってて

 

素直に
すーと心に入ってきたのです。

 

心の底に、ダメなら帰るけど
意見は言う、

と定めたので
頑張れたのでした。

 

それと、傷ついたら帰れる所がある
という

安心感を持って
頑張れたのです。

 

☆ そして挑戦の日々

はじめに意見を言えた会話とは、

 

「上2人の嫁は子供は幼稚園から
行かせてるのに

貴方は保育園に入れて子供が
可哀想だ」

 

と言われたら
「保育園に入れた子供が全てが
悪い子に育つとは

決められないと思います」

 

実家の棚にしまってあった皿を
「これ持っていきなさい」と
言われたら

「今の所、足りてますし、
皿の柄があんまり、、」と
勇気をもって

断ってみました

「勝手にしなさい、もう、
何もあげないわ」と
怒らせてしまいましたが。

 

「2人目の子供、授かりました」と
報告したら

おめでとうでなく「生むの?」と
聞かれ

一瞬絶句しましたが、
「はい、生みます」

 

(補足です。
私は不妊治療6年の末に、
漢方薬にて妊娠しました。

2人目は自然妊娠でした。

ここでも東洋医学素晴らしい!
命の尊さが不妊経験から
身に染みていました)

 

☆ 実家に帰省宣言

 

正月、お盆休みには
親戚一同が本家、親の所に集まる
しきたりなので

お迎えする準備に
家族旅行なども当然出来ません。

 

ある時
「私にも親がいます、サービス業で
休日休めるのはお盆休み位です。

何年も帰れないので
私、実家に帰らせて頂きます」と

 

許可を貰わずにお盆休みに
帰省してしまいました。

 

☆ 絶対厳守の家風が

 

この件からその後、
上2人の嫁に「貴方だけズルい
私達だって帰りたい」
と言われました。

 

上2人の嫁も右に習えでなんと帰省するようになりました。

 

他の嫁の行動革命が
少しづつ起こり始めたのでした。

家風がだんだん変わり始めました。

 

 嫁合格へ

 

10年20年と経つうちに
義母から言われました

 

「貴方が一番信用できる」
「貴方は裏表がない」
「貴方は腹の中に何もない」
「貴方は嘘をつかない」
「貴方はあっちむいて
アカンベェしてない」って。

 

本当に嬉しかったです。

努力が実った瞬間でした。

 

父の言葉のアドバイスに添ってみて
本当によかったなと思いました。

 

感謝の心でいっぱいになりました。

 

☆ そんなこんなで、してきた事は

 

何を言われても心を尽くすことは
徹底しました。

出来ることは自分からお手伝いを
させて頂きました。

 

お買い物に付き添ったり身体に
良さそうなサプリや

BCAA入りの栄養のあるキャンディーを
お持ちしたりしました。

 

実家の東京行く時は

 

名物の義母の好きな和菓子、お惣菜を
欠かさずにお土産で買って帰りました。

嬉しいと喜ぶ顔になるようにと
やって欲しそうなことを思案して
精一杯尽くしてきました。

 

後悔のないようにとの
誠心誠意の努力の結果は

 

約30年経過し、現在は
ホントに
そんなことがあったのかという感じの

仲の良い夫婦で
富山で生活しています。

 

義父母は他界しました。
夫婦仲良くがきっと一番、義父母の
望みだろうと、

安心して天から見てて
頂ける事なんだろうと思っています。

 

☆ その期間に子供の不登校が

 

はじめは小2の朝の集団登校のことです。

先頭と最後は高学年の子がつきます。

小1の子に「歩くのが遅えよ」と
最後列の子が

けりを入れたのを見て

うちの子が「小さいんだから
可哀そうだよ」と

庇ってあげたら、「
何を~」とうちの子が
頭や背中、足と数発
けりをいれられたのです。

 

ケガをして帰宅したのでした。

 

それからは雨の日などに
突然に、後ろから

傘で背中を殴ってきます。

 

なので背中にみみずばれのケガをして帰宅します。

 

そんな朝の登校時間から
ひどい目にあう日々なので
「ジロッと睨まれると怖い!
行きたくない」と言い出しました。

 

学校に班を替えてもらえるように
交渉してみましたが
通らないので
車で送ってあげるようになりました。

 

その後、少5の夏休み中の事です。

 

「39度の高熱なので休む」と
部活の先生に連絡をしましたら

「お前やる気あんのか!
何考えてんだ!今から出てこい!」と

 

暴言の返答を貰った子どもは、

 

この脅し文句に怯えて
「休んだら余計に酷く扱われる」と
怖がって

 

灼熱の36度位の暑い夏!なのに
高熱を出しているのに

 

母が止めても、
その後の予想される
恐怖の方が大きくて

 

無理をして
部活に行ったのでした。

その状態で体調不良のままで
9月の大会に向けての練習にと

 

ずっと休まずに通学と部活動を

 

1日も休まずに
頑張ってた子どもでした。

 

小児科では風邪との診断でしたが
無理をしてるので症状が治りません。

 

「ずっと酷い頭痛があるんだ」と
言っていたのでした。

小児科の薬が効いてくれないので
漢方の病院へと変えてみました。

そこでは
「溶連菌ですよ
1か月も何やってたのか」と
怒られてしまいました。

 

直ぐに検査結果のでる病院に連絡して下さり
時間外の所、
受入検査体制で
待ってて頂く手配して下さり
急いで急患で行き
検査して頂きました。

 

血液検査の結果によっては
小児麻痺になる可能性ありですと
驚きの事を聞かされました。

 

結果
「ギリギリ大丈夫でしたよ」と
言われ、結果を聞くまでは
どん底の心でした。

 

こんなに
暴言だろうと
言われるとおりに

 

歯を食いしばって
黙って指示に
ついていって
頑張ってきたのに
母子共に
奈落の底に突き落とされた気分でした

 

その後、9月の大会の為にと
こんなに無理をしてきた結果は
大会のメンバーには
入れてもらえなかったのでした。

 

「お前、やる気なさそう、補欠」
やる気あるから暴言に耐えてきたのに

 

理不尽にも一言も返さずに
黙々と練習に励んで来ていたのにです。

この辺から子どもの
人間不信が始まりました
大会には一応
友人達の応援に行きましたが

 

補欠の出番はありませんでした。

 

裏切られたと感じる感情

 

酷い言動にも
言うとおりに耐えて従ってきたのにという
やるせなさで一杯の心。

 

熱もあり
ぼーとしてる状態の中で

 

自己ベスト更新って
どれだけ大変なことでしょうか。

 

☆ 朝から帰りまで関わる担任

 

担任で部活動担当の先生でしたので

朝から帰るまで関わる先生でした。

 

担任はいつも、朝の自分の
機嫌ひとつで

朝の教室に入ってきた時から
意味もなく
理不尽に
ただ怒ってばかりいる態度の先生でした。


クラスメイトにもその辺は
聞いて確認していました。

 

☆ ある朝のこと

 

ある日の朝から
行けなくなりました

 

車で送っても
泣いてドアにしがみついて

 

「行かない」と
叫び泣きしていました。

 

そのまま
中3まで不登校になりました。

 

他にも
心傷つくような事が
色々とありましたが。

 

上の子が小中と不登校すると
下もつられて
行ったり行かなかったりする事もありました。

 

☆ PTAの運命のクジ引き

 

そんな中で私に事件が訪れます。

上の子が中3の4月に
PTAの役員決めのくじ引きにいきました。

 

頭が真っ白になりました。
この私が学年部長を引いてしまいました

 

不登校してる子の親が偉そうに

 

みんなの上に立ち
行事予定などを言い
結果発表を伝えるのです。

 

辞退する事は許されませんでした。
1年間、針のむしろ状態で役員会に出ました。

 

会長さんに相談すると

 

3年生は知ってるけれど
1,2年の親は知らないからねと。
慰めの言葉をもらいました。

 

☆ 部長を逃げずにやってみた

 

役員会の前になると
先生から恐怖の電話がかかってきます。

 

「○日の○時に来て下さい」

 

行事の結果や
これからの行事の事を
教えて頂きました。

 

おろおろしない様に
紙に書いて
読み上げるようにしました。

 

毎回、家で練習して行きました。

役員会の度にただ学校へ行くだけで
なんと気の重いことか
ただ廊下を歩くだけでも辛いのです。

 

私の事を
みんなはどう思って見ているのだろうと
怯える心でした。

 

 役員のお陰で子どもの心の叫びを知ることに

 

隠れたい、
身を隠したい、
小さくなって下向いて
トボトボと
部長は針のむしろのようでした。

 

この、行くだけで辛い感情を
何度も味わったお陰で

 

子供に
大好きな部活だけでも

 

顔を出して
行ってみたら?とか
言っていた自分が
恥ずかしくなりました。

 

なんて、
浅はかな事を
子供に提案していたんだろうと
やっと気づきました。

 

深く反省出来たのでした。
行けるわけがないよねと。

 

母がこんなに行くだけで
こんなに身が縮むのに。

 

酷いことを言っていたのだなと
申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 

子どもの気持ちは
行きたくない
見られたくない
誰にも会いたくない

 

それで当然だよね

 

それを
部活だけに
顔を出すとか出来るわけがないと

 

心の底から理解できたのでした。

 

とんでもない
無理難題な
酷いことを私は言っていたのだなあと
心から反省したのでした。

 

 生きて笑って

 

このことから
子供に対して
学校に行く事よりも

 

ただ、生きて、ご飯食べて
笑っていてくれればいいよ

それだけで充分!と

 

何も望まない
生きてる事だけで幸せ

 

という心境に
心から思えるようになったのでした。

 

それまでは
母の見えない無言のプレッシャーが
あったのだと思います。

 

それがなくなったのを
感じたのか

 

子供は明るくなって
好きなアニメ見て

アニメ描いて
アニメーション画を描く仕事をしたいと
夢を見つけたのです。

 

幼稚園の時から
絵が上手で
よく選ばれて展覧会に出されて
入選していましたので
向いている道に目覚めたのだと思います。

 

 ここで長い後日談

 

部長役員で修学旅行、卒業式での挨拶、先生への卒業挨拶など
大事な場面での挨拶がたくさんありました。

 

その度に図書館で何冊も
実例集を借りてきて

1か月位かけて原稿を作成してきました。

 

そうやって
役員会をこなしてきた結果は

執行役員の方に
「貴方の原稿頂戴よ、
すごく良かったわ。

 

私に他で使わせて」と
褒められるまでになっていました。

 

更に「来年、下の子が
入学してくるのでしょ、

来年も一緒に私達と一緒に
部長としてやっていきましょうよ」

と誘われました。

私は誘いに乗って
なんと立候補して
1年の部長をしたのでした。

 

すると
「貴方が部長するなら貴方を手伝うわ」と

今年の役員をクジ引きに来た
お母さん達が立候補して下さり、

学校始まって以来のクジ引き無しで
1年生の役員が
全てが決まったという
歴史を残したのでした。

 

また、主任先生が
卒業式の挨拶を終わる私のそばに来て、

「貴方を1年間ずっと見てきましたが
貴方がお母さんなら
子どもさんは大丈夫ですよ」と
言ってくださいました。

 

そして不登校していた子どもが
卒業式の4日前に
「お母さんが家で
一生懸命にスピーチの練習いつもしてて

頑張ってる姿を見てたら
自分も頑張ろう!って思った」

と言ってくれて
最後の4日間を登校出来たのでした。

 

更に5年後の事です。
中学の主任から
急に電話がありました。

「貴方以降の部長役員が
まったくなってないのですよ。

今年の役員を
貴方の家に行かせるから指導して欲しい」

と言われたのです。

 

そしてその年の部長の方が
家に来られまして

私のしてきた事を
お伝えしたのでした。

 

☆ 悪運が良運に

 

運が悪いなあと思っていた

 

部長を引いたクジ引きは
とてつもない
良い運良い結果を
招いてくれたのでした。

 

 そんなこんなの中に夫が過換気症候群で会社に行けなくなる

 

会社に行くと、汗びっしょりになり
数時間しか居られないで帰宅する主人でした。

 

過換気症候群なので
退職する事になりました。

 

すぐに
退職金でIT関連の起業をしました。

 

その会社は
2年程で負債抱えて精算をしました。

 

その後、
2年半ほど無職状態が続きました。

 

そんな中、2、3時間のバイトでもと思い
こんなのどうかな?と情報誌を見せると
「お前が行けば!」と返事をする夫でした。

 

私が経済を支える状況になっていました。

 

なんでこんなに
私って苦労の連続なんだろう。

 

こっちに
来なかった方がよかったんだろうかと

思い悩む日々でした。

 

家族のこの状況を
どう受け止めていくか、

 

自分の心、捉え方、考え方との
戦いの日々の
数年間を過ごしました。

 

 仏教哲学で許す心に

この頃仏教を学び始めます。
因縁とか因果応報とか
相手は鏡とか。

 

色々な概念を学ぶうちに
相手ではない

全てが自分であること

 

どのように捉えるかという事
色々な概念を知り学ぶことで

 

責める心が
無くなっていきました。

受け止めたり許す心が
育っていきました。

 

☆ この間、心療内科に通っていた

 

不登校の子供は
家を出られませんでした。
なので私が
子供の代わりに心療内科に行きました。

 

不登校の子の親向けの本の著者で
心療内科医師でしたので
私の相談に対して

「本をよく読み、
そのように接しているので

そのままやっていけば大丈夫です」

 

「それよりも
母の貴方が
潰されないかと凄く心配ですね。

貴方の心が
辛くなったらいつでもいらっしゃい」

 

「子供さんは
貴方のその肯定話法で大丈夫ですよ、

ご主人の事も抱えて
その状態なら
大体離婚しているよ」

 

「よく逃げないで
夫、子供に対応しているね、

貴方だから
保っているんですね」と

医師に褒められ、
ねぎらわれて

 

医師に
優しい言葉をかけられて

私を心配して頂いた事が、
もの凄く
私の心の支えになりました。

 

いまやっている
この肯定話法でいいんだなと

前に進ませてくれました。

 

事実、本当に子供も主人も
変わってくれました。

 

 肯定話法とは

 

こんな事言ってきたんだ
嫌な気持ちだったと言ってきたら

 

こちらも
同じことを言うのです
繰り返すのです

 

また、プラス
自己肯定感を育てるのに

 

怒って何か物を投げたとしたら
物を投げてはだめだよ、と
それだけを注意すること

 

「だから、いつもだめなんだから」
と言うと

 

人格全てを否定してしまい
貴方は駄目な人間だと
レッテルを張ったことになるので
要注意です

 

この話法を
医師は著書に書かれていたのです。

これを徹底的にしました。

 

大人も子供も
この話法は大事ですね。

 

 不登校の子が、なんと美大に合格

 

高校は受験なしの
面接で入れる所に入学しました。

小さい頃から絵が上手で
保育園の時から
毎年、賞を取ってきていました。

 

その特技、好きな事に
挑戦して美大に行けました。

 

その高校では
初の美大合格者排出という
歴史を残して。

 

現在、
映像関係で絵に関わる仕事で
活躍しています。

 

 ずっとしてきた何でも話すということ

 

この2人の子ども達には
友達のように

何でも話をしてきました。

 

小さい頃から
何でも聞いてきました

 

難しいと言われる思春期も
会話してこれました。

 

大人になった今でも
友達の様に話をしてくれます。

 

子どもの仕事先では、
どんな風にどんな親に育てられたの?

子どもに聞かれるそうです。

 

2人の息子はそれぞれに
周りの方々に
人間性を褒められるそうです。

 

私自身も
「男の子をどうやって上手に育てたのか」と
よく聞かれます。

 

現在しか知らない人は
不登校してた過去に
一様に驚かれます。

 

 富山で美容室自営

 

嫁として母として妻としての
葛藤の中で

 

美容師としてのヘアケアに加えて
「パーマやカットなどをされなくても
何か相談があったら
何時でも来て下さいね」

とお客様に言っていたら

 

本当に
相談だけで
来店される
ようになったのです

様々な相談を受けてきました

 

また男性客の
起業への後押しなどもしました

 

その方の
“人生の転機の役に立ちたい”と

段々と
思いが強くなっていきました。

 

髪の毛が
心、健康、食べ物、環境の
全ての影響を受けていて

全てのケアが
必然
であることから

 

アロマテラピー  (香り)
カラーセラピー  (色)
オルゴールセラピー (音)
潜在意識整体セラピー(脳科学的)
心理カウンセラー  (気づき)
情報空間の書き換えセラピー(トラウマ、感情浄化)

東洋医学  漢方(自然治癒力)
風水鑑定士  (磁場エネルギー)
水で細胞活性化
言霊セラピー
視点セラピー
数秘術鑑定  (生年月日から運命を知る)
仏教哲学  (お経から知る哲学)
フラワーレメディー(花のエネルギー療法)
などなど

 

トータルセラピストサロンとして
研鑽してきて

現在に至ります

 

 例えばこんなお客様がおられました

 

A様 50代 女性
(どんなお悩みだったか)

3年も咳が止まらなくて
薬を飲み続けていた方。

ご主人様を責める心で一杯で
ずっと我慢していたそうです。

 

(ご相談後、どの様に変化されたか)
自分目線でしか
見ていなかった所から

第三者の目で見たり
相手基準で
物事を捉えられるように変わってきました。

その後、心が軽く楽になって
咳もとまりました。

ご主人様が
家族の為に
黙々と頑張ってくれていたんだなと

感謝の心に変わられました。

 

B様 母40代 娘小5
(どんなお悩みだったか)

小学生の子供が
全く言うことをきかなくて
手に負えない。

全く勉強しないし
嫌いだというので
ケンカになるんです

 

(ご相談後、どの様に変わったか)
こうしなさいと押しつけたり、
娘さんの
考えを聞いたことがなかったお母様でした。

私が直接、
娘さんに聞いてみました。

「教科で何が嫌なの?」
「やりたい事とかある?」
娘さんは
「料理が好き」
「法律とか好き」と
言われました。

そこから話した結果、
そのやりたい事を叶える為には

勉強は
やった方がいいと
娘さんが納得されて

一生懸命
勉強されるようになられました。

この件から
一方的に
決めつけてた母だったんだ

無限の可能性を
潰してしまう所だった。

やりたい事があるなんて
知らなかったと

ただ
上から目線で命令していたから

娘は抵抗していたんだねと
応援してあげるお母様に
変わられました。

 

C様 20代 女性
(どんなお悩みだったか)

仕事で
リーダーに昇格したが
出来るか自信がない、
不安で仕方がないんです。

(ご相談後、どう変わられたか)
あれこれ
悪い事ばかり想定されていましたが

上司は
私に期待してくれているのだと
自信を持ち

部下と共に
体制を整えていくのが役目と

不安は消えて
頑張ろうって
元気いっぱいになられました

 

などなどこれまで
内容は様々の話を
たくさん聞いてきました。

 

私自身の今までの

嫁姑問題は人間関係、
方言の理解、置かれた環境。

夫婦問題は互いを認め合う事。

不登校は
生きているだけで幸せという
心境、感謝の心。

 

全てが、
その問題がなければ

自分の成長も
なかったのではと思います

全てが糧となっています

 

人の心
がわかるようになり、

優しくなり、
受け止めて、
包み込んで、

違いを認めて理解して
責めずに譲りあう
大きな深い心になりました

 

2度も
精神科、心療内科にお世話になって、

もう、どうしようもない時、
つらくて苦しくて悲しくて、
パニック状態になる時、

 

かつての私が
心の支えがあって
超えられたように

 

今、貴方が
色々と抱え込んで
もしとても、
つらかったら悲しかったら

私にぶつけてきてください。

 

私が
貴方のこころの支え
なれるかもしれません。

ため込んでいる
我慢している

辛い、悲しい、苦しい、怒りを
いつの間にか
封じ込めてきている

 

モヤモヤした感情を
そのまま、
ただ吐き出されたらいいですよ

 

わけわからなくなっている
自分の心が

いつの間にか
整理されていくでしょう。

そうかと
何か気づくことがあるでしょう。

 

貴方の
心のエネルギーが
湧いて満たされてくるでしょう

 

その場所から
前に1歩、踏み出せるでしょう。

 

自分が変わると
見える景色が変わります

 

感謝の心で
涙もあふれてくるでしょう。

 

心配、不安、不眠、
不満、身体の不調から

貴方の思いを
ただ吐き出すことで

 

予想もしない感謝の心が
涙と共に不思議と湧いてきて
心が軽くスッキリするでしょ

 

今まで色々と

私の研鑽重ねてきたセラピーを
融合させたエネルギーセラピー

ブレインビューエネルギーセラピー

 

貴方も受けてみませんか

 

どうぞ心よりお待ちしております

 

あなたの
こころの支えに少しでもならせてください

 

あなたが辛い渦の中から抜け出せるよう

お手伝いさせてください

 

どうぞ

あなたのこころの叫びを聞かせてください

 

お待ちしておりますね

 

どうぞ
下記からお問い合わせ、
ご予約をお待ちしております

 

 

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